馬淵史郎監督の息子や年収!松井秀喜への敬遠と名言!脱臼の整復とは?

高校野球画像

馬淵史郎監督は高校野球の強豪校、高知県の明徳義塾高等学校の野球部監督です。

2019年の夏、2年ぶりに甲子園の出場を決めた明徳の名物監督である馬淵史郎さんの、息子さんや年収、名言などを調べてみました!

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馬淵史郎監督の息子

馬淵史郎監督には息子さんが1人ます。

馬淵 烈(まぶち つよし)さん、1989年6月5日生まれなので2019年8月現在は30歳になりますね。

馬淵烈さんは明徳の野球部出身で、エースで主将も務めていました。中学生の頃から「監督の息子だから」と揶揄されてきたようで、悔しい思いをしながら懸命に励んでいたようです。

しかし、残念ながら高校3年間、一度も甲子園への出場は叶いませんでした。

高校最後の夏の試合は、敗退が決まるとベンチ裏のトイレで声を上げて泣いたそうです。

高校卒業は父親と同じく拓殖大学へ進学します。

2012年に大学を卒業すると、社会人野球チーム「シティライト岡山」へ所属します。

2015年には、所属チームから引退し出身大学である拓殖大学でコーチとして就任されています。

お父さんと同様、指導者としての道を歩んでいくのでしょうね。これからの活躍が楽しみです。

馬淵史郎監督の結婚した嫁(妻)

奥さんは、一般の方であまり情報がありません。

ただ現在は不明ですが、奥さんは明徳の英語教師だったようです。

明徳の同僚教師として出会い、交際に発展したんでしょうね。

馬淵史郎監督の妻でありながら、野球のルールも知らないんだとか。

松井秀喜選手のバッシングの中でも、奥さんは「あなた何か悪いことしたの?」と言った感じだったんだとか。

マイペースな奥さんですね。こんな奥さんなら馬淵史郎監督も、家では仕事を忘れて息抜きが出来たのではないでしょうか。

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馬淵史郎監督の年収

明徳義塾高等学校は私立高校になります。

調べてみたところ、私立高校の教員の平均年収は約700万円ほどだと言われています。

しかし、高校野球の強豪校にもなると学校の知名度を上げてくれるなど、メリットも多いためもう少しプラスされるようです。

一部の高校野球強豪校の監督は年収1千万にもなるとか。

馬淵史郎監督も、年収1千万近いのではないでしょうかね。

馬淵史郎監督の松井秀喜への敬遠

馬淵史郎監督と聞くと「松井秀喜5打席連続敬遠」を思い出す人は多いでしょう。

1992年の夏、全国高校野球選手権大会で、松井秀喜選手を全打席敬遠した事で大きな話題になりました。

馬淵史郎監督は一躍「悪役」となり、バッシングされました。

何より、7回表2死無走者という場面でも敬遠した事でブーイングはさらに増したといいます。

しかし、馬淵史郎監督は「その時点で3-2だった。ホームランを打たれたら同点、それによって向こうが勢いづくのが怖かった」と話しています。

馬淵史郎監督は騒動後、一度は辞表も提出したそうですが学校長は受け取らなかったといいます。

馬淵史郎監督や明徳への批判はすさまじく、非難の手紙の中にカッターの刃が入っていたものもあったとか…。

「盗塁」「刺殺」など物騒な言葉が多い野球用語の中で、唯一綺麗な言葉が、「敬遠」だと馬淵史郎監督は言います。

馬淵史郎監督は、松井秀喜さんをリスペクトしていたわけですね。

馬淵史郎監督の名言

「選手達が男にしてくれました」

「一生懸命やって失敗した後カバー出来る人間になってほしい」

「結果が出なかったということは、まだまだやっている事が足りなかった」

必ずしも順風満帆ではなかった馬淵史郎さんの監督人生。言葉はシンプルですが、どれも重みがありますね。

馬淵史郎監督の脱臼の整復とは?

2017年、二塁盗塁狙ってスライディングした選手が肩を脱臼してしまいます。

すると、なんと馬淵史郎監督が、脱臼した肩を整復し、その後何事もなかったかのように選手が笑顔でグラウンドへ戻っていったと話題になりました。

しかし、この荒療治には賛否両論がありました。

素人が安易に整復すると、却って悪化させてしまう事もあるんだとか…。

うーん、それは確かにそうかもしれませんが動画を確認した所、監督は手慣れている様子です。

長年高校野球の監督をしていると、脱臼する選手も少なくはないでしょうし、もしかしたら整復の経験があったのかもしれませんね。

馬淵史郎監督のwikiプロフィール

  • 氏名:馬淵 史郎(まぶち しろう)
  • 生年月日:1955年11月28日
  • 出身地:愛媛県八幡浜市大島出身
  • 出身高校:愛媛県立三瓶高等学校
  • 出身大学:拓殖大学

 

2019年8月現在で63歳になるんですね。

まだまだ明光の名物監督として活躍してももらいたいです。

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馬淵史郎監督の経歴

高校、大学と内野手を務めた馬淵史郎監督ですが、甲子園経験はありませんでした。

大学卒業後は地元である愛媛県、松山へ帰り鉄パイプの販売会社やプロパンガス会社と2社で就業します。

1982年、高校時代の恩師に誘われ兵庫県の警備会社、「阿部企業」へ入社して野球部のコーチ兼マネージャーに就任します。

1983年、恩師の急逝のため27歳で監督へ就任となります。

1986年、社会人野球日本選手権大会で準優勝に輝きます。

馬淵史郎監督は、退職して再び愛媛県へ帰ります。

弱小と言われていた野球部を準優勝まで導き、実績を残したことで肩の荷が降りたんしょうかね。

1987年、明徳義塾高等学校でコーチに就任します。

同時に高校社会科の教職免許を取得します。

1990年、明徳義塾高等学校の野球部関東へ就任。

馬淵史郎監督が就任すると、明徳は全国大会の出場頻度が高くなります。

2002年夏、全国優勝。

素晴らしい経歴と実績ですね。選手としては陽の目を見る事はありませんでしたが、指導者としての才があったんでしょうね。

馬淵史郎監督の指導方針

馬淵史郎監督は「確率」や「試合の流れ」を重視して采配を振るいます。

選手の実力、点差、相手選手など全て考慮した上で戦略を練るそうです。

馬淵史郎監督は、確かに指導に厳しい所はありますが理不尽に「けなす」ことはないと教え子が語っています。

また、明徳は全寮制のため馬淵史郎監督も選手達と一緒に寮で生活しているそうです。

冷静に判断する監督への絶対的な信頼に加え、家族同然で生活を送る監督の距離感、監督と選手間の絆は相当深いでしょうね。

まとめ

  • 馬淵史郎監督の息子だる烈さんは拓殖大学野球部のコーチに就任している。
  • 年収は1千万近い⁈
  • 選手の肩の脱臼を整復したことがある。

 

2019年夏、2年ぶりに甲子園出場を決めた明徳義塾高等学校の活躍が楽しみですね!

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