こんにちは、へぼんです!
オリンピックイヤーである2020年の日本の朝の顔は朝ドラ『エール』で主人公を務める窪田正孝さんと、ヒロインを務める二階堂ふみさんに決まりましたね!
そこで朝ドラをもっと楽しむべく、ヒロインのモデルである古関金子さんの経歴や馴れ初めについて調査してみました!
ということで今回は、朝ドラ『エール』ヒロインのモデル古関金子は歌手?経歴や馴れ初めは?と題して徹底調査してまいります!
スポンサーリンク
古関金子のプロフィール
名前:古関 金子(こせき きんこ)
旧姓:内山 金子
出身地:愛知県豊橋市
生年月日:1912年3月6日
没年月日:1980年7月23日(享年68歳)
職業:声楽家、詩人
幼い頃からお転婆で社交的だったと言われる古関金子さんは夫である古関裕而さんに負けないほどたくさんの才能に恵まれた方でした。
子供の頃から発揮していた声楽の才能や文芸の才能だけでなく、晩年には絵画の才能までも発揮されています。
また、古関裕而さんの1番のファンだったので、今回の朝ドラのモデルになることについて「当然よ」と笑うだろうと長男の古関正裕さんは話していました。
スポンサーリンク
古関金子の経歴
古関金子さんの父、内山安蔵は愛知県豊橋市の陸軍に物資を納入する仕事をしており、裕福な家庭でした。
子供の時は音楽や文学が好きでとても元気な女の子だったそうです!
しかし12歳の時に父が亡くなったため、大学進学を諦め、高校卒業後は名古屋で知人の雑誌を手伝いながら宝塚歌劇団を夢見て歌の勉強を始めます。
1930年1月に古関裕而さんのコンクール入賞を知り、運命を感じた古関金子さんは手紙を送り、2人の文通が始まります。
とても積極的ですね!2人の馴れ初めは後で詳しく述べたいと思います。
結婚後、作曲家デビューのため夫婦で上京してすぐに「ヴォーカル・フォア合唱団」に入団し、帝国音楽学校の声楽部本科に入学します!
ベラトラメリ能子の1番弟子として様々な舞台を踏みますが、戦争の激化により活躍の場が減り、子育てに専念するため中退することになります。
戦後再び声楽の勉強を始め、古関裕而さんが作曲したオペラ3作に出演しましたが、育児のため声楽を引退します。
1958年に「婦人文芸」に参加し、後に委員となり詩や随筆を寄稿し、文才を存分に発揮します!
1967年に乳がんが判明し、2度の手術を受け闘病生活を開始します。
しかし、1980年7月に乳がんが全身に転移し68歳で亡くなります。
古関裕而さんは非常に落ち込み、葬儀の時の挨拶も小さな声で「大変お世話になりました」と述べただけだったそうです。
古関金子と古関裕而の馴れ初め
続いて古関裕而さんと古関金子さんの馴れ初めについて詳しく述べていきます!
1930年に古関裕而さんがイギリスロンドン市で開かれた作曲コンテストで「竹取物語」などで2位入賞を果たし、日本人初の国際的コンクールの入賞だったため、当時大々的に報道されます。
小学5年生の時に学芸会で「かぐや姫」の役をしていたことから「かぐや姫」と呼ばれており、報道によって古関裕而さんを知った古関金子さんは「竹取物語」という曲に運命を感じて「楽譜を送って欲しい」という手紙を書いたそうです!
古関裕而さんの元にもたくさんの手紙が来ていましたが、同じ音楽という夢を持つ古関金子さんは特別に感じ、「楽譜の控えを送ります」という返事をして2人の文通が始まります!
とても素敵なエピソードですね。まさに運命の赤い糸が2人引き合わせたという感じですね!
そして1930年の5月28日に古関裕而さんが福島から愛知県の古関金子さんの元を訪れ結婚を申し込み、そのまま婚前旅行に向かって6月1日に結婚しました!
交際期間わずか3ヶ月という電撃婚で、古関裕而さんは20歳、古関金子さんは18歳という若さだったそうです。
2人は晩年までおしどり夫婦で、夫婦仲はとても良かったそうです!
福島県福島市にある古関裕而記念館では古関裕而さんが古関金子さんに送ったラブレターも展示されているそうなので、2人の馴れ初めをもっと知りたいという方はぜひ足を運んでみてくださいね!
まとめ
とういことで今回は、朝ドラ『エール』ヒロインのモデル古関金子は歌手?経歴や馴れ初めは?と題して徹底調査してまいりました!
・古関金子さんは愛知県豊橋市出身で、幼い頃から音楽家を目指していた。
・古関金子さんは声楽家としてオペラや様々な舞台を踏んだのち詩人となる。
・2人の馴れ初めは古関金子さんが送った手紙から文通が始まり、交際期間わずか3ヶ月で結婚に至った。
という結果になりました。
最後までご覧頂きありがとうございました!
スポンサーリンク
コメントを残す